1984年中国の旅(15)桂林

8月11日

 飛行機で念願の桂林へ。1時間半か2時間程のフライト。硬座や硬臥のことを思うと、信じられない程楽な移動。1度飛行機の味を覚えると2度と列車には乗れない。(1984年)

  

 飛行機が桂林に近づくにつれて独特の形の山が数限りなく姿を表す。飛行機の景色も山水画そのものの美しさ。この日はどんよりと曇った天気だったが、それがより一層風景を美しくする。(1984年)

写真が経年劣化で色あせてしまったのが残念だ。(2020年)

 

 広西師範大學の構内に独秀山という山がある。例のような形の山だが、登ることができる。高さはさほどないが、けっこう汗をかく。頂上に着いても売店などがあるわけはないから、暑い暑いとぼやくしかない。低く垂れた雲がよい背景となって山を浮かび上がらせている。(1984年)

 

8月12日
 桂林観光の、いや、中国観光のハイライト、漓江下りに出かける。33元と、中国にしては異常な高値だが、それだけの値打ちはあった。(1984年)
 人それぞれ好みはあるかもしれないが、船の上から、美しい光景にずっと見とれていた。何時間船上にあっても飽きることはない。山も、川も、周囲の人々も、本当にずっと山水画のような絵になる光景だった。
13年後の1997年にも再度訪れているが、その時も、飽きずに風景を眺めていた。(2001年)
 
 桂林で知り合ったのは千葉の大学生のSくん。空港からのバスで一緒になったのだが、最初は日本人かどうか分からずに話しかけるのをためらった。原因は時計で、それ以外はどう見ても日本人なのだが、時計だけが、あまりにも安っぽく、どう見ても中国人か香港人。いや、中国人でも、もっといい時計をしている。後できくと、持ってきた時計をなくして、中国で1個6元で買ったという。一応、クォーツの表示があるのだが、何と一日に15分狂った。中国人でも、その時計を見ると馬鹿にしていた。(1984年)
 今は、日本でも1000円の時計を売っているが、当時はまだまだ高級品。今の1000円の時計なら狂わないのだが。(2001年)
   
 漓江を生活の場にしている人は多い。舟を浮かべて魚をとっている人たち。荷物を運んでいる人たち。
舟で昼食が出されたが、そこで使う魚は漁師が、釣れたてを舟で持ってきていた。何という魚か分からないが、30cm以上の大きさで、味も良かった。(1984年)
 おそらく、桂魚だったのだと思う。舟の厨房まで舟で運んでくるのは97年も同じだった。おそらく、一種のショーなのだろう。(2001年)
     
 この日の天気は曇り。低い雲が垂れ込めて、今にも振り出しそうな天気。桂林の風景にはこのどんよりとした空がよく似合う。
漓江下りの船旅は結構時間がかかる。同じような山が続くから、あきもくるが、少し疲れた頃に昼食。その後、また元気になってデッキで写真を撮ったりして、また退屈しかけた頃に雨が降り出した。そして舟が終点の陽朔へ着く頃には上がっていて、天候的にはついていた。
(1984年)
        
 漓江下りは退屈だという旅行者に大勢会った。その大半は最初の目的地に桂林を選んだ連中だった。ところが、こちらは全く逆。桂林で知り合ったSくんもそうだった。とにかく桂林へ行かねば、というのをエネルギーにして中国を歩いた。中国の旅はスケジュール通りにはならない。切符がとても手に入りにくい。硬座でも何でも、とにかく動いてみる体力と根性。後は運としかいいようがない。蘇州・杭州間の舟もひどいものだったが、無理して乗ったおかげで桂林までの飛行機がとれた。その翌日も、翌々日も満員だったから、本当にラッキーだった。とにかく、もう無理かなと思っていた桂林へ来れただけで充分に気分は良い。その勢いで、漓江下りは本当に心から楽しめた。(1984年)
 最初から桂林にだけは行きたいと思っていた。中国について、あまり予備知識がなかった中で、桂林の風景だけは良く知っていた。ところが、鉄路では不便な所にあり、旅の途中まで、切符の手配に苦労し続けだったので、上海を諦めたように、桂林も諦めかけていた。だから、飛行機で楽にやってきたとはいえ、桂林に着いた喜びはひとしおだった。(2001年)
 
 漓江下りの時は、Sくんとウマが合ったせいもあって、気分最高で、写真を撮りまくる。どの景色を見ても画になりそうで、ついついシャッターを押してしまった。(1984年)
 
 食堂でも何でも、国営より民営の方がいい。並んで食券を買って、また並ぶというようなことをしなくて、愛想よく注文をとりに来てくれる方がいいし、融通もきく。桂林では桂林飯店という店となじみになって、滞在中は毎日通った。ただ、後で気づいたが、メニューを中国人用と、外国人用に分けていて、高級なものばかり食わされていたらしい。(1984年)
 中国の他の都市の食堂と比べると格段に食べやすかった。他の都市では、有名レストランとホテルの食堂以外は、学食みたいな感じの店が多くて、しかも共産主義的服務員に従わなければいけなかった。しかし、桂林には、本当に普通の町の食堂という感じの店が多くて、ここだけが資本主義だった。
食べ物も、普通の炒飯があって、それが口にあった。それまでは、ずっと、向こうのお仕着せのメニューが多くて、ごはんは白飯だった。中国の米は口に合わず、当時はその米にも慣れてないし、それにあわせた食べ方も知らなかったので、米がまずく閉口していた。桂林に来て、おいしい炒飯に当たり、また、好きなものを自由に注文できるので、毎日ここで食べた。
桂林飯店の並びには、何軒も食堂があって、それぞれが競い合って商売していた。資本主義では当たり前のことだが、当時の中国で目にしたのはここだけだった。この店には外国人用に英語のメニューがあって、私たちにはそのメニューを持ってきていた。後になって、中国人の客には中国語のメニューがあって、どうも記載されている料金も違うらしいということに気づいた。二重料金制は当時は当たり前だった。
(2001年)
 桂林を悪く言う人は多い。商売人がすれてるとか、乞食が多いとか。しかし、中国に長くいると、社会主義的商売にはもううんざり。「マネーチェンジ」「コーカン」と近寄ってくる方がよっぽど楽しい。商売っ気がありすぎるのは、もちろん疲れるが、全くないのもつまらない。土産物を扱っている店も値引き自由。「人民元と兌換幣は同価値だ」などという教科書的発言をしないで、兌換弊は1.5倍で計算してくれるのも楽しい。訪れた町の中では最も資本主義的だった。(1984年)

旅の楽しみの中に、店員さんと話をしながら土産を買ったり、食堂の人と話したりということが含まれているということがよく分かった旅だった。共産中国にはその要素が少なくて、食事も買い物も疲れる一因だった。たとえ商売目当てのつきあいだったにしろ、旅行者が現地の人と触れ合う機会というのは、食堂と土産物屋が圧倒的に多いのだから、その部分が面白くないと楽しくない。桂林は、そのあたりが、ちょうどほどよい加減だったのだと思う。他の国の有名観光地ほどもすれてなくて、共産主義的無愛想でもなく、ちょうどいい感じの時期に当たったのだろう。(2001年)
 桂林で一緒になったSくんは、山水画の掛け軸を買って帰るのだと張り切っていた。おまけに同じドミトリーの美大生が、日本に持って帰ったら10万以上する、などというので、つられて何人もの日本人が買った。俺も結局2本買う。30RMBと45RMB。ブラックチェンジした後だから2千円と3千円。滅茶々々安い。
日本に帰ってから注意して見ていると、10万以上というのはウソで、中国製は2万くらい。国産の雑なものも2万くらい。それでも安い。(1984年)
 とはいえ、日本で家に飾ったことはない。(2001年)
 今は、家の掛軸を自分が管理するようになったので、ときどき飾っている。(2020年)
 陽朔のおばさんの立ち話。入場料を取られた後でも、こういう光景はよく見かける。中国の観光地では、外から来たものには入口があるのだが、地元の人たちにとってはごく普通の生活の場であるらしい。その辺が不思議である。
右のおばさんは瓜かヘチマのようなものを担いでいるのだが、そのへこみを肩に当てていて、それが面白くて撮ったが、シャッターのタイミングが少し遅れた。(1984年)
 肩に担いでいるのは冬瓜だったのだろう。(2020年)
   
 陽朔に着くと、バス停までの道で何故か入場料を取られた。くれたチケットは中国で手にした入場券の中では最も大きく印刷もきれいだった。(1984年)

陽朔は当時は西洋人の溜まり場のような町だったらしい。日本人の持っているガイドブックと、西洋人の持っているガイドブックは当然違って、西洋人たちの好む場所、好む店というのがやはりある。当時の中国に関する情報はまだまだ少なくて、西洋人も日本人も同じドミトリーに泊まっていたが、ここ桂林では、桂林には日本人、陽朔には西洋人というような分布になっていたような気がする。(2001年)
  
 漓江下りの舟旅の帰りはバスの旅。その車窓からの風景も素晴らしい。2期作の田植えの後の田んぼに映る山も美しい。途中、有名な観光地らしい公園に停車したが、そこでの写真。田んぼのあぜ道に土産物の屋台が並んでいて、その横では農民が働いている。(1984年)
 この公園は、何かの映画の舞台になったらしい。この木の周りの写真屋の看板には、この木を背景にした主演男女優の写真が貼ってある。中国人はそのまねをして、同じポーズで写真をとる。写真を撮る時には必ずポーズを作る。そこまではまねられなかったが、同じ場所で一枚。(1984年)
 この公園、向こう岸へ渡るのに橋がない。観光客はいかだで渡り、地元の人は浅瀬を歩いて渡る。自転車も押して渡る。(1984年)

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