1984年中国の旅(14)杭州

8月9日
 「天国と天国の間は天国だった」と言われる蘇州・杭州間の船旅。ところが、それは臥舗に乗ったときの話。この日の臥舗は前日から売り切れ。翌日の分も売り切れ。仕方なく軟座とは名ばかりの座席券を買う。これには後日譚があって、後で杭州で会った日本人は同じ便の臥舗を乗船の2時間前に買ったという。いかにも中国的。全て運まかせの国である。軟座の旅はひどく、中国人の臭い足と、きたなさとの格闘の一夜。入口の扉の鍵をかけられた時には、奴隷船とはこういうものかとも思ってしまった。天国と天国の間には地獄があったとしか言いようのない体験。これに比べれば火車の硬座などは天国。中国滞在中最も酷い一夜であった。(1984年)
 臥舗というのはベッドつきの部屋のこと。軟座は船底の椅子席。一人掛けではなく、ベンチに何人か並んで座る。荷物もいっぱいで足の踏み場もなく、床もひまわりの種やら何やらでゴミだらけで、普通の精神状態ならバッグを置くこともできない。もちろん、そんなことも言ってられないので、リュックを床に置いて、窮屈な姿勢で寝た。船底なので、景色もほとんど見えない。(2001年)
 今から思えば、その時は、「いかに効率よく安く移動するか」が旅の目的みたいなことになっていて、ドミの相部屋での情報交換はいかに安くすませたかの自慢大会みたいになっていたときもあった。昼間に蘇州から杭州までのんびりと船旅を楽しんでみたいと今では思う。(2020年)
8月10日
 早朝に地獄の船から解放されて杭州の町に入る。一つの戦いから解放されても、また戦いが始まるのは中国の旅では当たり前。ホテルを一歩外に出ると、次のホテルに部屋をとるまでは常に戦いの連続である。満員のバスに揺られて(バスを見つけるまでも充分大変なのだが)杭州飯店をめざす。ここでもドミトリーのベッドをもらうのに相当苦労するが、地獄の船の後なのでどうってことはない。ただ白人たちが次々と比較的簡単にベッドがもらえるのに、こちらはなかなか。中国の4段階差別。外賓(白人)、日本人、香港同胞、人民である。ただし、料金だけは日本人も外賓であるのが余計に腹立たしい。
 蘇州→杭州の船の中は最悪だったが、甲板からみえる景色はなかなか良かった。運河か川か分からないが、川沿いの道を種々雑多な乗り物が行き来し、自転車に追い抜かれるのも愛嬌。川にも様々な乗り物が往来し、中でも面白いのは、船を車両のように連結しているもの。多いものは20艘ほどの船をつないで、運行している。そういえば、われわれの乗っている船も3両編成くらいであった。ただ乗りをする連中もいる。船が通りかかると道から川に飛び込んで泳いで船に乗り、自分の目的地が近づくと、また川に飛び込んで道に戻る。のんびりしている。
 早朝にバスの中で見た西湖は美しかった。朝日に湖面が輝いて、水はあくまでも青く澄んでいて、どんなに美しかったことか。地獄の船の後だけに、感激は大きかった。ところが、近くで見ると、水は濁ってどす黒く、ゴミだらけである。少々がっかりした。しかし、西湖を中心とした杭州の景色はすばらしく、ここも、日本人好みの観光地である。十和田湖と似た雰囲気がある。(1984年)
 ホテルで簡単に翌日の桂林行きの飛行機の便がとれたので、バテバテだったが、観光に出かける。霊隠寺。石窟の仏像が多く、表情が豊かで面白い。山寺で、仏像のそばを小川が流れていて、中国人たちは裸足になって、小川に入って楽しんでいる。(1984年)
 ホテルの中に航空会社の代理店があった。杭州から桂林までの直行便があることも知らなかったが、偶然見つけた航空会社のカウンターで桂林行きがあることを知った。翌日なら空席があるというので、即決で買った。料金も日本円に換算すれば、それほど高くもないし、桂林への鉄路は乗り換え等もあり、日数がかかりそうなので、桂林行きをあきらめかけていたのでラッキーだった。
ここからは、楽な方へ楽な方へと旅の方針は転換される。移動が目的化した旅からは解放され、桂林からはのんびりとすごすことになる。(2001年)
 今にして思えば、長距離移動は初めから飛行機にしておけばよかったのだ。ただ、当時は自分自身も貧乏で、できるだけ節約したいという気持ちがあった。また、日本ではほとんど情報が手に入らなくて、現地の口コミが主たる情報源だった。鉄道にしろ、船にしろ、切符をどこで売っているのかという情報すらもあいまいだった。出たばかりの「地球の歩き方中国編」が唯一のガイドブックでバックパッカー全員がそれを持っていた。そしてその情報も正確ではなかった。
 情報もなければ切符もない。ホテルの部屋さえない。とにかく移動手段を確保すること、寝る場所を確保すること自体が大変だった。お金さえ出せば切符も部屋も手に入るという状態ではなくて、切符そのもの部屋そのものがないのである。そして、何をするにも行列、割り込み。カオスの世界に疲れていた。食事はホテルでなら何とかなった。中国料理は大勢で大きな皿を囲むのが普通だが、ホテルではバックパッカーのための定食みたいなものを用意してくれていた。町の食堂というのは、特定の観光地をのぞいてはほとんどなく、あっても食料切符みたいなものが必要だった。共産主義のなごりで、配給制度みたいなものが残っていたのだ。当然、外国人はその切符を持っていないので、本来食べることができないのだが、目をつぶってくれるところが多かった。今では考えられないとんでもない旅だった。(2020年)
   
 朝食を食べた霊隠寺の前の食堂で、糧票がないので、ノートにサインさせられるが、おかげで日本人と分かり、親切にしてもらう。セルフサービスなのに、テーブルまで持ってきてくれる。ザーサイたっぷりのラーメンでおいしかった。(1984年)
 まだまだ共産主義の時代で、食料は配給制が建前だった。昔の日本でも外食券の必要だった時代があるらしいが、糧票とはそのようなもの。管理はゆるくなってきており、なくても、どこの食堂でも目こぼししてくれた。
この食堂のことは17年後の今では全く覚えていない。(2001年)
   
 西湖は近くで水を見つめない限り、たいへん美しく、地元の人たちにとっても、とても楽しい遊び場らしい。遊覧船も貸しボートも、足こぎボートもある。(1984年)
      
 午後は遊覧船で西湖見物。船は充電式のモーターで動いているらしく、音も静か。運転手は全員女性で、中国らしい。西湖の真ん中に島があり、その島の中にまた池がある。美しい所。(1984年)
 当時も今も、女性の社会進出ははるかに進んでいた。日本では男性がすると考えられているような職業にも女性が多い。バス、タクシー等の運転手も女性がたくさんいた。(2001年)
 日本は先進国だと思っている人が多いが、海外を旅してみると日本の遅れているところが目立つ。女性の人権はその最たるもの。LGBTへの偏見、たばこ、等々、他にもいろいろある。(2020年)
 
 蘇州でも杭州でも、蓮の華が満開で、とても美しかった。(1984年)

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