1984年中国の旅(13)蘇州

8月7日
 夜行に乗って北京を後に蘇州に向かう。何と硬臥なのにクーラーがきいていた。ほぼ24時間火車ですごすが、トランプをさそわれるくらいで、しつこく話しかけられることもなく快適。(1984年)
 この日程を見てみると、北京にはわずか4日しか滞在していない。切符が取れたらすぐに移動という感じで、移動そのものが目的化している。それだけ切符の手配が大変だったわけだ。
実は、この旅では、上海を訪れていない。もちろん、当初は計画に入れていたが、旅の途中のドミトリーで、上海での切符やホテルの状況を聞いて、上海を飛ばして、一気に蘇州に向かった。今から思えば、残念なことをした。(2001年)
8月8日 滄浪亭(1984年)
8月9日
 蘇州は庭園と運河の街。名園といわれるのものがやたらと多い。そのどれもが、日本人好み。よく手入れされていてきれいだが、もうひとつ感動しない。京都の観光地にいるような錯覚におちいる。
写真は瑞光塔。(1984年)
 蘇州の宿は南林飯店。日本語を話す人が多く、親切で感じが良い。同室になったのはマカオからの留学生。英語はほとんど通じないが、日本語が話せた。一緒に市内見物をする。
蘇州の女の子は、上海に近いせいか、どことなくあかぬけていて、美人が多い。蘇州美人を妻にして杭州に住むという中国人の夢が分からないでもない。(1984年)
 一人旅ゆえ、多くの人と同室になったり、知り合ったりしているのだが、連絡先を交換した人はごくわずか。もちろん、メールも携帯もない時代だから、自宅の住所を交換するしかなかったのだから、当然ともいえる。交換した人たちとも、ほとんど手紙のやり取りとかもしなかった。記録にはあるが、記憶にない人も多い。西安で知り合ったカナダ人とか、メモがあるので、そういう人がいたなというかすかな記憶がよみがえったが、このマカオ人などは全く思い出せない。(2001年)
 お寺に入るのと、塔に登るのと2度入場券が要るというのは中国中どこでも同じ。この北寺塔も例外ではない。我々にとっては大した額ではないが、中国人にとっては結構こたえるだろう。京都のお寺群を思い出す。登ってみたところで、あまり目新しいこともないが、何故か登ってしまう。上から見た蘇州の街は(どこでもそうだが)新しいものと古いものが入り乱れている。古い中国的家屋の屋根が面白い。(1984年)
 この屋根の写真を見ると、よく登って撮っておいたものだと思う。今となれば、貴重な風景。(2001年)
 先年、中国映画の字幕や通訳で活躍されている樋口裕子先生とお話した際に、樋口先生の「懐旧的中国を歩く」(日本放送出版協会)という本の話になった。その時に、先生はその本の中の写真について「よく撮っておいたものだと思います。今はすっかり変わってしまいましたから。」とおっしゃっていた。誰しも思うことは同じだ。それほど中国は急速に変わってしまった。(2020年)
 遠くに見えるのは虎丘か。(1984年)
      
 中国の代表的名庭園といわれる、拙政園と獅子園を続けて周る。拙政園はやたらと広い。どちらもとても美しい庭園だが、日本にもよくあるようなタイプで、京都の名園を続けて歩いた時のように、美しさに麻痺してしまって、感動がうすれる。(1984年)
 北京からやって来ると、蘇州は本当に田舎という感じ。道幅が急に狭くなって、曲がりくねっている。他の中国の都市と比べると、本当に無計画という印象をうける。おそらく、運河が街のあちこちを流れているため、都市計画道路が造りにくかったのだろう。曲りくねった狭い道、細い路地、これらが没個性的な他の都市と比べて、人間臭くて楽しい。(1984年)
 
 水の都、東洋のベニスなどと呼ばれているが、いかにもそれらしいという風景は意外と少なかった。それらしい風景を見かけると写真に撮ったが、これらが連続して存在しているわけではない。写真として切り取っているだけだ。後になって、上海近郊に、そういう水路の街がいくつか残っていることを知った。それらの街も今では観光地化されている。(2001年)
 
 午後は寒山寺、虎丘など郊外の観光地を周るというマカオ人と別れて、街をぶらぶら歩く。有名な観光地を見てまわるより、ぶらぶら歩きの方が面白い時もよくあるが、この街は特にその感が強かった。細い運河沿いの人々の生活が、いかにものんびりしているようで(決してのんびりなんかしていないだろうけど)楽しい。長崎の眼鏡橋のような橋があちこちにある。(1984年)
   
 双塔は奇妙な建物だった。廃墟のような建造物と、やけに新しく、けばけばしい色の塔とのアンバランス。(1984年)
 玄妙観の屋根。(1984年)
 
 地下街の入口。
古めかしい蘇州の街で見つけたこの地下の商店街の話は中国で会った誰に話しても信じてもらえなかった。地下街は北京にもないし、他には広州に一つあっただけ。蘇州のような田舎に何故あるのか不思議。ただ、換気が悪いのか、変な臭いがして目が痛い。おまけに、店員の態度は典型的中国型公務員だから、全く活気はない。ビスケットを買った。(1984年)
 私が子どもの頃は日本にもほとんど地下街はなかった。ウメ地下が一番古いという噂を聞いたことがあるが真偽は知らない。京都には地下道はあったが、地下街はなかった。
北京は実は田舎ということを今なら知っているが、当時は北京が一番の都会だと信じていた。蘇州は中国一の都会上海のすぐそば。北京より進んでいても何の不思議もない。
ただ、当時の中国は民営化前で、商店や商店街はおしなべて活気がなかった。商店というのは、資本主義の最たるもの。当時の中国のお店は商店ではなく、売店、購買所だった。(2001年)

1984年中国の旅. Bookmark the 記事のURL.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です