1984年中国の旅(5)鄭州

 鄭州に着くとすぐに西安行きの切符を買った。硬座で2泊した後だったので、根性が坐っていて、硬座の切符しかなかったが、迷わず購入した。広州ほどの大都会ではないので、自力で市内の切符売り場で買ったと記憶している。夜行の出発まで1日間があいたので、少林寺行きの中国人向けの1日ツアーに参加した。(2001年)

7月28日

 少林寺の一日ツアーのバスに乗る。最初に着いたのが、この密県漢墓。はいこれですよ、という感じで、中国の観光地は何の愛想もない。早足でさっと見て周るくせに、説明書きだけは必死で読む中国人に混じって早足で見物。その後はお決まりの記念撮影。看板があれば、その前で撮らなければ気のすまない中国人達。負けずに一枚。(1984年)

 この文章につけるコメントはいっぱいある。なぜなら、当時の文章が、中国や中国人、中国旅行に対する偏見と無知に満ち溢れているからだ。初めての中国旅行で当然のこととはいえ、17年後の、少しは中国に慣れてきた自分から見ると、本当に恥ずかしい。少しくどくなるかもしれないが、当時の状況の思い出も含め、細かくコメントをつけてみようと思う。(2001年)

ツアーの行き先については、事前には少林寺以外は全く知らなかった。少林寺が鄭州の近くにあることも、このツアーに誘われるまで知らなかった。だいいち、鄭州で観光をするということ自体が日本を出る前には予想もしていなかったのだ。とにかく、バスを降りたら密県漢墓だった。密県漢墓の名前は知っていた。世界史の授業で聞いたことのある所に来たなというのが、最初の感想だった。だが、その中身については、その時は(実は今も)何も思い出せなかった。だが、私の頭の中には、当時も今も、密県漢墓というのは有名な遺跡としてインプットされていて、当然誰もが知っている名所だと思っていた。ところが、今回このページを書くに当たって少し調べてみたが、歴史事典の類では全く見つけられず、インターネットでもごくわずかしかヒットしなかった。不思議に思い、高校の社会科の先生2人にも尋ねてみたが、専門外で、知らなかった。いったい、私はどんな世界史教育を受けてきたのか。うんん。(2001年)

 少林寺ツアーの第2の停車地、中岳。お寺であることは確かだが、どういういわれのものやら、何という名前のてらやらさっぱり分からない。説明書きも全く読む気がしない。とにかく暑い。ただただ中国人の後について歩く。彼らは国内旅行をするのにも許可証がいる。そのせいか、貪欲に必死で見て周る。どこに見る価値のあるものがあるのか分からないが、彼らはハーン、ハーンと感心しながら見ている。(1984年)

 ツアーのメンバーはほとんどが中国人だったように思う。改革開放の始まって、ぼちぼち国内旅行が許可されるようになった頃だったのだろうか。観光開発はまだまだ進んでいなくて、いわゆる観光地らしい雰囲気は全くなかった。
日本人でも同じだけれども、中国人も記念撮影が好きだ。当時はまだ二眼レフ(縦にして上から覗いて撮影するやつ)が主流で、少しだけコンパクトカメラ(オートフォーカスなんて当然ついてない。単焦点などの昔のタイプ)を持っている人がいた。一齣一齣をすごく大切に撮っていて、必ずびしっとポーズを決めてから撮影するので、すごく時間がかかる。自然な感じの、いわゆるスナップ写真なんかは絶対に撮らない。まるで雑誌の表紙のようなポーズをきちっと決めて撮っていた。(2001年)
 ツアーのメンバーはほとんどが中国人だったように思う。改革開放の始まって、ぼちぼち国内旅行が許可さ 中国人たちが写真のポーズにこだわるのは今も変わっていない気がする。
 ツアーのメンバーはほとんどが中国人だったように思う。改革開放の始まって、ぼちぼち国内旅行が許可さ 観光開発については本当に遅れていた。民間企業というのがほとんどない時代の話なので、町を歩いていても一般の商店や食堂といったものはほとんどなかった。だから土産物屋街というものもない。観光客相手の喫茶店や食堂もなどもなかった。どこへ行っても人人人でゆっくり見物もできない現在とはえらい違いだった。のんびりしていた。(2020年)

 中国のお寺にはげんなりする。色が剥げ落ちようが、少々壊れていようが、古い昔のまま、そのまま手を加えずに残すという日本式の考えは通用しない。とにかく、昔はこうだったんだという姿、色に修復している。どこへ行ってもけばけばしく彩色された仏たち。手を合わす気にならない。
中岳廟。
(1984年)

 今読むと、恥ずかしい文だ。知識のなさ、見識のなさに赤面する。
当時の理解では、何でも「お寺」。今でも、孔子廟、関帝廟、道教寺院(道観)、仏教寺院程度の区別しかできないが、当時はそれらの違いさえ分かっていなかった。
 中岳廟が何かなどというのは、もちろん知らないで訪れた。いまだによく分かっていないが、道教の寺院だったらしい。全くもって猫に小判である。(2001年)
  
 中国でもどこでも子どもは面白い。暑さのあまりズボンを脱ぎ捨ててしまった子どもたち。小さな子どもは下着を着けていないことが多い。女の子ならスカートの下はスッポンポン。男の子は股の所を切ってあって、しゃがむと、自然と大も小も衣服を汚さずに垂れ流せるようになっている。(1984年)
 さすがにこんな丸裸の子どもたちは見かけなくなった。股開きのズボンもほとんど見ない。2002年に故宮で股空きのズボンを見かけたときには思わず写真を撮ってしまったが、それほど珍しい。おそらくおのぼりさんが穿かせていたものだろう。上海や北京でもたまに見かけるが、多分、上海や北京のこどもはそういう服は着ていないような気がする。(2009年)
 お寺の前にはズラーっと露店が並んでいる。まるで天神さんの縁日である。こまごまとした土産物とスナックが多いのも日本と同じ。店は奥行きが深くて、パリのカフェースタイル。ただし中身は大違い。食べるものはバケツに入った蒸しトウモロコシ、ゆで玉子。コップにガラス板でふたをした生ぬるいお茶が一杯3分。店番は中学生くらいの実に無愛想な女の子。(1984年)
こうしてみると、観光開発のきざしはあったことになる。(2020年)
 実を言うとこれが中岳廟の参道なのか、少林寺の参道なのか記憶がはっきりしない。もう17年も前の話だから、仕方がない。おそらくは中岳廟の前。
天神さんというのは京都の北野天満宮の毎月25日の縁日のつもりで書いている。一時期、天神さんの縁日が好きで、何度か足を運んだ記憶がある。
バケツに茹でたとうもろこしが入っていたのにはびっくりした。バケツと言うと雑巾バケツのイメージが強くて、ついつい不潔だと思ってしまう。でも見るからに不潔そうだった。(2001年)
 上の写真のテーブルに載っているのが生ぬるいお茶。ガラスのコップにお茶が入っていて、ほこりが入らないようにガラスの板で蓋がしてある。舗装されていないほこりっぽい道の脇なので、蓋がないと売り物にならない。炎天下なので、当然生ぬるい。しかも、ただのお茶である。それを金を取って売っているのだから驚いた。その頃の中国は冷蔵庫がまだまだ普及していなくて、観光地でも、外国人用のホテルやお店には冷たい飲み物があるが、それ以外のところでは冷えたものにありつけなかった。ビールもコーラも冷えてないのが当たり前。こういう日本人の行かない場所では冷えたものを手に入れるのは至難の業だった。水のペットボトルなどがまだない時代の話だ。とにかく暑くて、冷たい飲み物が恋しいのに手に入らない。今では考えられない話だが、当時は冷たい飲み物は本当に貴重だった。
1杯3分という値段は記憶に残っている。当時の公定レートで1元が100円ほど。3分は3円に当たる。コーラやビールは1元から2元程度だった気がする。ちなみに、冷えてる店でも冷えてない店でも値段は同じだった。分という単位だが、スーパーなどの端数としては使われていたが、普通の店では角(1元の10分の1)が最低の単位だった。実際にものが分の単位で売られているのを見たのは後にも先にもこのお茶だけだった。(1984年)
 この文章にスーパーというのが出てくるが、そういうタイプの外国人用の店が少しあった程度で普通の町にはスーパーなどというものはない時代だった。(2020年)
 少林寺の前は川、その向こうがこの風景。本当にのどか。暑さとほこりに負けて、この川で顔を洗う。「少林」と字の入った野球帽を買って日射病対策。野球帽というよりは小学校の運動会で使う赤白の帽子のよう。本当にちゃち。(1984年)
 中国から帰ってしばらくは、この「少林」帽と人民帽を日本でもかぶっていた。あまりのちゃちさが気に入っていた。しかし、正直で率直な友に「何やねん、その帽子は」と言われ、我に帰って捨てた。人民帽はもうしばらく存命であった。(2001年)
 人民帽、人民服と言っても今の人には分からないかもしれない。1970年代までの中国では全員が人民服を着、人民帽をかぶっていた。緑色の帽子である。1984年当時は都会ではあまり見かけなくなっていたが、地方へ行くとまだまだ現役で人民服、人民帽姿の人たちが大勢いた。(2020年)
  少林寺には、やはり多少がっかりさせられた。中国でも有数の観光地、映画にも度々登場している。もう少し何か期待していた。本当に何もない。中国の観光地は本当にあっさりしている。カンフーの気配も感じられないし、頭にポツポツのついた坊主もいない。日本ならきっと、カンフーのショータイムがあるんだけど。(1984年)
 まだまだ観光開発が遅れていたのだろう。改革開放で観光客が初めて訪れ始めた。しかし、受け入れる側には観光開発と言う考えはまだなかった。
この頃、日本でも李連杰主演の「少林寺」などのカンフー映画がヒットしていた。その映画に登場する少林寺のお坊さんたちの頭にはサイコロの「六」のような形でポツポツが六つばかりついていた。今はきっと一大観光地になっているに違いない少林寺をもう一度訪れてみたいものだ。(2001年)
 この一日ツアーでは、おそらく訪問先のどこかで食事をしたのだろうが、あまり記憶にはない。まだまだ共産主義の時代で、町の食堂というものはあまりなかった。あるのは、高級レストランとホテルの食堂だけ。普通の人が通りがかりに入れるような気楽な店はほとんど皆無だった。鄭州の町で一回だけ食べた食堂は、おそらく職場か地域の共同食堂みたいな所だったのだろう。小さな窓口からお皿をもらうような店だった。今どき、学食や社員食堂でもそんなところはない。
この日は、少林寺か中岳廟で食べたのだと思うが、あまり記憶はない。油条のようなものを食べたような記憶があるが、それは別の場所だったかもしれない。(2001年)
 ここも例によって工事をしている。どんどん新しい建物を作り、色を塗り替えている。この割れた鐘もそのうち新品に入れ替わっているのかも。とにかく新しくて、きれいなものが良いらしい。古いものは古い故に良いというようなことは中国の観光地には当てはまらない。(1984年)
 奈良や京都で育って、古い仏像や寺院を見慣れていたので、古いものを古いままで見せるというスタイルに染まりきっていたようだ。今では、こういう色つきの寺院や仏像にも慣れ、きれいなものを素直にきれいと喜べるようになった。作られた当時の姿を再現してみせるという方が、正しいのかもしれない。(2001年)
 色つきの力士像にも愛嬌のあるものもある。目の表情が何となく良い。(1984年)
 
 筆一本で、あっという間にさらさらっと書き上げる。ハケに黒と朱と2色の墨をつけて、一筆で絵を描いている器用な人もいた。同じ絵柄ならすぐに描けるようだ。(1984年)
 少林寺の参道にはズラッと店が並んでいる。土産物屋もあるが食堂が多い。民営らしく呼び込みも派手で、売り込みもうまい。国営と違って、味もサービスも良い。そして、なかなか良心的。露店のジュース屋も冷えたジュースを出す。味はほとんどないが、冷たいだけで有難い。1杯1角。昔よくあった、下から噴き上げる噴水式の冷蔵庫である。ふと向かいを見ると、面白い頭をした子供。頭のてっぺんだけを残してそっている。なかなか。(1984年)
 噴水式のジュースの冷蔵庫というのは、日本でも昔の観光地に良くあった。缶ジュースの自販機が普及して、姿を消したが、デパートでも駅前でも、人目につくところには良く置かれていたものだ。当時の中国には冷えた飲み物がなかなかなくて、この機械を見たときには、電気で循環させているのだから、きっと冷えているだろうという直感が働いた。味は良いとは言いがたいものだったが、一応冷えていた。それだけで充分価値があった。冷たい飲み物はホテルか外国人向けのお店にしかなかったのだから。
 この子どもの頭は子連れ狼の子どもの大五郎みたいで、記憶に残っている。お尻は丸出し。(2001年)
 84年の文を読むと、少林寺の参道には土産物屋や食堂があったようだ。一般の町には全然なくて、大きな観光地にだけそういうお店が並んでいた。桂林がその典型で外国人からするととても快適ですごしやすかった。
 2001年の文の大五郎の例えも今では通用しない。(2020年)
 少林寺ツアーから帰り、土ぼこりでどろどろ。続けて夜行に乗るので銭湯へ。下の見えないどろどろのお湯。西洋式の入り方で、お湯は入れ替えない。いくらきたない水でも洗えば体はきれいになる、というのが中国式。とてもついていけない。おまけに小便臭くて、日本の風呂が恋しい。ただ、ベッド付きの休憩室は有難い。お茶もおいてあって、のんびりするのには良い。(1984年)
 汚かったが、とにかく体を洗って、休憩室で少し休んだ。そこの近くでタオルと石鹸を買ってから行ったのだが、そのタオルの頑丈だったこと。分厚くて、帰国後も、いつまでも痛まずにあった。(2001年)

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