1984年中国の旅(4)鄭州

7月27日
 2泊3日の硬座の旅を終えて鄭州に着いた。地方都市という感じだが、駅前が工事中で、バス停を捜すのに苦労した。写真は川沿いにあるレストラン。(1984年)
 硬座というのは2等の椅子席のこと。超満員でこの席さえダフ屋に頼んで取ってもらった。座れただけまだまし。4人がけの文字通りの硬い席。それで2泊もした。今だったら絶対にやらない。でも、最初にこの移動を経験したおかげで、何が起こっても堪えられるようになった気がする。
鄭州には特に行きたかったわけではない。洛陽または西安に行こうと思っていて、ここで乗り換えだったのだ。通しでの切符というのは買えなくて、この町でまた買い換えることになる。車中で2泊してもまだまだ道半ば、中国は広い。
このレストランでは1回食事をした。今のように民営の食堂がいくらでもある時代ではなく、ホテルとこのレストラン以外にはレストランと呼べるようなものはなかった。この街でのもう1回の食事は小さな食堂で摂ったが、そこは学食をもっと閉鎖的にしたようなところで、壁にくりぬいた小さな穴から食事を受け取った。外食券のようなものが必要だったが勘弁してもらった。
この写真のレストランの思い出はビールがぬるかったこと。珍しくジョッキで飲んでいたので期待していたら、ぬるくて、味もひどかった。(2001年)
 中国の道は計画的に作られているのか道幅は結構広い。車の絶対量が少ないので車道は狭く、自転車道と歩道が広い。ところどころに自転車置き場があって、きちっと整理されている。有料と無料のところがあるが、桂林では1時間につき3分ほどだった。写真は鄭州。(1984年)
 3分というのはお金の単位。1元の100分の1が1分。今ではめったに使うことのない単位だ。当時でもほとんど使わなかったけれど。(2001年)
 鄭州の中学校の外壁と校門。壁画でも何でもプロパガンダに利用する。いかにも近代化を目指すというような画だが、現実には程遠い感じ。壁画と現実のギャップに悩んでしまう。(1984年)
 校門で記念撮影。多分、休暇を取るときに中国の学校事情を視察してきます、みたいなことを言ったのだろう。半ズボンの長さが今とは違うので恥ずかしい。
当時は、日本から中国に行くには、団体のパックツアーに参加するか、向こうの団体から招待してもらうしかなかった。個人で行くには香港ルートがあったのだが、そういうルートがあることを世間の人は知らなかった。だから、3週間中国に行くので休みますと申請したときには、いっぱい書類を書かされ、それを伝え聞いた同僚の中には何か視察団か何かに選ばれたのだと誤解している人もいた。面倒臭いので、誤解されたままにしておいた。その方が休みやすかったというのが最大の理由。(2001年)
 中国の学校も今は夏休みである。学校では何かの大会が開かれていたが、掲示板はそのままである。数学の問題の解答がチョークで書いてあったり、試験の座席表が残っていたりする。ところが、この写真を撮っている時に中学の職員に捕まってしまった。どうやら勝手に入ってはいけなかったらしい。フィルムを抜かれるのは覚悟したが、若い職員が助けてくれて何とか無事に終わる。参った。(1984年)
 
2枚の写真は、町の中心にある二七塔から見た鄭州の街。(1984年)
 2001年11月、NHKBSの番組にこの二七塔がちらっと写った。塔の映像を見ても登った記憶は蘇ってこない。でも、この2枚の写真があるのだから、間違いなく登っている。17年経つと、記憶と言うのは全くあてにならない。
その番組によると、この塔は1923年2月7日の鉄道労働者のストに対する弾圧を記念して建てられたということだ。それにしても、その番組で見た鄭州の街は全く知らない街だった。街が大きく変わってしまったのか、それとも、私の記憶が欠落してしまったのか・・・(2001年)
 昔の城壁の跡があるというので散歩に出た。城壁の跡なのかどうか分からないが、土手のようなところを歩いていて見つけた建物。屋根の上に草が生えていて、いかにも、という感じ。屋根に草が生えている建物は、その後もよく見かけた。(1984年)
   
 散歩を続けていると、何やら人が集まっている。子どもたちが一列に並んで歩いて来ては足を上げる。体操だろうか。しばらく見ていると木製の剣を出してきた。クンフーなのかダンスなのか。見物している子どもたちに聞くと「ウーシュー」だという。武術である。(1984年)
 青いズボンの少女は動きがいいと思っていたら、前に出て模範演技をやりだした。横にいるおじさんが老師。子どもたちが写真を撮っているこちらの方を気にするので、やりにくそうであった。(1984年)
 
 武術の練習を、大人も子どもも大勢が見ている。それを見物しているこちらを気にする子どもも多いが、老師の手前かあまり寄ってこない。カメラを向けると逃げるような子の方が多かった。子どもよりもむしろ大人の方が好奇心を露骨にむき出す。(1984年)
 公衆便所は至る所にあるが、ピンからキリまで。我々が利用できそうなのは少ない。これはキリの方。中までは見なかったが、だいたい想像がつく。(1984年)
 中国旅行の話になると、トイレの話題には事欠かない。皆一概にトイレで苦労した思い出を持っている。当時に比べると今は天国のような中国トイレ事情だが、それでも、日本の多くの旅行者には不評だ。私個人の場合は当時(84年)もさほど苦にはならなかった。(2001年)
 分かりにくいかもしれないが、写真の後方、むしろで囲まれているのがトイレである。(「むしろ」の解説も必要な時代になっているかもしれない。)(2020年)
 馬車や牛車も多いが、ロバに車を引かせているのもよく見かけた。(1984年)
 中国の道はほとんどが並木道。どこまで続くのか、広い道を自転車のおじさんが去って行く。(1984年)
 気に入っている写真の1枚。こんな広い未舗装の並木道が鄭州のような大きな町にも、当時はまだあったんですね。(2001年)
 鄭州はこの地方の中心都市だが、少し歩くとこんな風景に出くわす。町からほんの少し離れただけで羊の放牧をしていたりする。馬は近在の農民が荷車をひかせて来たものかもしれない。町のあちこちで野菜を売っている。この季節、特に多かったのはスイカ。日本に持って帰れば大してうまくはないだろうが、冷たいものの少ない中国では本当に美味しく感じる。一切れ一角ほどで、そこらじゅうで売っている。通りがかりの人たちが種をはきちらしながら、両手に持って食べている姿をよく見かけた。(1984年)
 自由市場というのが現れ出した時代で、農民は計画量を出荷すれば、残った作物は自由市場で販売してもよかった。共産主義から資本主義(改革開放主義)への移行期だった。
1角というのは1元の10分の1。当時の正式レートでは10円ほど。闇両替では、7.5円くらい。実際にはもっと価値が低かったと思う。今のレートだと1円ちょっと。(2001年)
 散歩の帰り、ホテルの方へ歩いているつもりが、どこをどう間違ったのか、全く見当違いの方へ出てしまった。市内からは少しはずれたあたり、突然線路が現れた。何をしているのか、線路にこしかけた人々が、あちこちにいる。夕涼みなのか、それともまだ見ぬ遠くの街を思っているのか。そんなロマンチックなものでないのは確かだ。(1984年)

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