1984年中国の旅(2)香港・広州

1984年7月23日

 まずは中国の入り口香港へ。近代的な街。日本と大して違わない印象をうける。写真はインペリアルの部屋から見た香港島。24日の早朝、この街を散歩してみる。風景はなるほど近代的で東洋の香りもあまりしないが、臭いはまさに中国。街中に香辛料の匂いがしみついている。(1984年)

 香港も初体験だった。ソウル、台北で2度も乗り継ぐという信じられない便で1日がかりで到着した。夜遅くについて、屋台でラーメンと何かを食べた。海老の出汁を使ったチキンラーメンというのが本物のラーメンへの第一印象だった。
匂いのことに触れているが、今でも、この匂いを嗅ぐと香港にやってきたことを実感して嬉しくなる。(2001年)

7月24日

 超近代的な電車に乗って国境の町羅湖へ。変わった帽子をかぶったおばさんは駅のおそうじおばさん。いかにも中国的と思って撮ったが、これは香港側のみのファッションだった。(1984年)

 この帽子は客家の女性がかぶるものだと、後に知った。後年、香港をたびたび訪れるようになってからは、新界の方に出かけると、この種の帽子をかぶった女性を良く見かけた。最近では、ビニール傘を、このタイプの帽子に加工してかぶっている人もいる。(2001年)

 この香港側の羅湖から中国側の深センまでは歩いてすぐ。ところが、その短い距離がとてつもなく遠い。延々とビザのおりるのを待つ。その間に、これほど多くの人間がいるのかと思う程、次々と国境を越えていく。やたら華僑が多い。また彼らの荷物のすごいこと。竹のおうこでふりわけにして山程の荷物をもって国境へ向かう。その合間に白人のツアー客も通った。(1984年)

 やっとこさ広州に着いた。着いてみたら、えらい人。暑いし、人は多いし、おまけに汽車(火車)の切符は買えそうにない。初日からダフ屋のお世話になる。(1984年)

 初めての中国の印象はとにかく人が大勢いるということと暑いことだった。この印象は17年経った今もあまり変わらない。人の多い大阪から中国に行っても「うわー、すごい人」と思ってしまう。逆に何日か中国で過ごして戻ってくると、「日本は人が少ないな」と感じる。
広州駅前の人の多さは今も変わらないが、生まれて初めて中国に足を踏み入れた人間には、とてもその中に入っていく勇気は出ない。中国に行ったことのある人には想像がつくと思うが、大阪駅前を大勢の人が歩いているのとはわけが違う。広州駅前の人たちは立ち止まっている。というよりは、座り込み、家財道具を持ち寄り、根を生やしているという感じだ。そして外国人を見つめる目つきは鋭く決して目をそらそうとしない。とても切符売り場まではたどり着けそうにない。実際、長蛇の列でどこに(どの売り場のどの窓口に)並んだらよいのかさえ見当もつかない。外国人専用の割高の切符を売る専用売り場があるにはあったが、何日も先の分まで全て売切れだった。(2001年)

 そこでダフ屋の登場となる。切符が買えなくてうろうろしていると向こうから声をかけてくる。互いに片言の英語、日本語、中国語に筆談を混ぜて交渉する。ダフ屋といっても高く売るわけではない。当時は人民幣(これは今の中国元と同じ)と兌換幣の2種類のお金があって、表向きは同価値ということになっていた。ところが、外国製品などは兌換幣でないと買えなかったので、実際には2倍以上の差があったのではなかろうか。当時は社会主義から改革開放、市場経済の時代への過渡期で、社会主義と資本主義が混在していた。外国製の電気製品は売られているが、お金があっても買えない。兌換幣は外貨(日本円、米ドルなど)から両替しないと手に入らない。そこにダフ屋たちは目をつけていた。切符を取ってきてくれる条件が兌換幣での支払いだった。例えば、30元の切符なら、130元を兌換幣で支払い、100元の人民幣と切符を受け取るというようなやりかただった。われわれにとっては特に損ではないのでこの条件で買ってもらった。ところが、この話を聞いた仲間の日本人は、次の日には30元の切符を買ってもらって、130元払って、150元の人民元を受け取っていた。つまり、兌換幣:人民幣、1:1.5で闇両替していたのである。(2001年)

 広州一なら世界一だ、という泮渓酒家で晩飯を食う。世界一というほどの味ではなかった。ただ広いのなんの、レストランの中にも池があって、その周りにたくさんの部屋がある。昼間に来ればさぞかしすごいだろう。(1984年)

 この店には1997年と2000年にも訪れている。当時とほとんど雰囲気は変わっていない。味のほうは、やっぱり世界一ではないけれど、そのちょっと下くらいかな。香港と比べると、中国の料理はちょっと野暮ったい。(2001年)

 この旅行は「地球の歩き方」の募集したツアーに参加した。香港往復と香港、広州で各1泊、中国ビザがセットだった。「地球の歩き方」はまだ全部で6冊しかなくて、中国はその6番目、初版が出たばかりだった。中国個人旅行の情報はほとんどなく、このツアーに参加するしかなかった。今では考えられない話だがツアーの事前説明会まであった。2日間行動をともにした仲間と出会いと別れの宴をもった。(2001年)

 広州の宿は白雲賓館。最高級のホテル。中国の街はどこもかしこも工事中で、この白雲賓館も例外ではない。1階のロビーが工事中だった。向かいには花園酒店という大ホテルが建設中。ホテルの隣は友誼商店で、その前のバスターミナルには2両連結のバス(公共汽車)がいつも停まっている。(1984年)

 友誼商店というのは、外国人向けの百貨店兼土産物屋みたいなところ。今もまだあるのだろうか。2000年前後には、まだ残っていたような気がする。当時はまだまだ改革開放以前で、外国人が普通に買い物をできるような店は少なかった。買い物をするにも、土産を買うにも、友諠商店に頼っていた。どの町でも、外国人向けホテルのそばにあり、私も必ず訪れていた。(2001年)

この友誼商店では兌換幣しか使えず、外国製品はここで兌換幣で買うしかなかったのだろう。先の両替屋たちが両替した兌換幣は富裕層に渡り、彼らがここでの買い物に使ったのではなかろうか。(2020年)

 雀巣珈琲という文字につられて友誼商店の横のレストランに入った。雀の巣のスープがあるのだから、雀の巣のコーヒーもあるのだろう。どんなコーヒーかと期待したのだが大間違い。世界のネスカフェのことでした。おまけに定食の意味かと思った三文治がサンドイッチで、すごくまずい。広州ならではの中国最先端。中国式マクドナルドだったんだけれど、とにかくがっかり。まだ中国2日目だったから感動はなかった。悔しさだけ。(1984年)

 当時の中国のコーヒーとパンは本当にまずかった。一流ホテルでもまずかった。まして、街なかのお店(そんなものを置いている店自体がほとんどなかったが)ではものすごくまずかった。もちろん、マクドナルドはまだ中国には進出していなかった。
今のように、どの町にもマクドナルドとケンタッキーがある時代が来るなんて、想像もできなかった。この店は、アメリカ式のファーストフード店をまねしたお店。当時のパンやケーキ、クッキーの類はことごとくまずかった。作っている人たちが西洋のものや日本のものを食べたことがないのだから仕方がないんだけれど。
(2001年)

 

 

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