8月1日
西安の西の郊外を訪ねるツアーに乗る。茂陵の石像群は飛鳥の石像を思わせる。(1984年)
茂陵というのは、漢の武帝の墓。予備知識も何もなしに見物しているので、まるで猫に小判の一日。今から思えば、もったいない。(2001年)
茂陵そのものはピラミッドを上から叩いてへこませたような形。陵の上に登ると、周りに同じような陵がいくつも見える。どの陵でも人々は上に登ることができる。バスを降りた連中は皆料金のうちと思うから登っていくが、別に何があるわけでもない。(1984年)
風化して穴の空いた石で作られた庭は中国各地でお目にかかった。一つの様式なのだろう。
昨日ほとんど写真を撮らなかった反動で沢山撮ったが、出来上がってみるとろくなものがない。(1984年)
昨日ほとんど写真を撮らなかった反動で沢山撮ったが、出来上がってみるとろくなものがない。(1984年)
もちろんフィルムのカメラの時代の話で、一こま一こまが結構貴重だった。今のようにデジカメで気が向いたらパチリというわけにはいかない。また、カメラそのものも大きくて重かった。私はふだんはコンパクトカメラを愛用しているが、この旅行では、写真を撮りたいという気持ちもあり、一眼レフにズームレンズをつけて持って行った。とはいっても、レンズは35mm~135mm程度の3倍か4倍弱のズーム。当時のコンパクトカメラは、かなり大きく、ズームもなかったから、記念写真以上のものを撮るのは難しかった。3~4倍のズームを確保するためには、大層な一眼レフを持ち歩くしかなかったのだ。今なら、ポケットに入るデジカメで充分なんだけど。(2009年)
右側の建物は墓への入口。そこから小山のような陵の下まで急な下り坂のトンネルが掘ってあって、お墓の内部を見ることができる。トンネルの両側には壁画があり、天平時代のような色彩画が描かれている。本物なら素晴らしい。(1984年)
乾陵の陵墓群のいくつかを訪れたらしい。当時の入場券を見ると「乾陵博物館」の「章懐太子墓」と「永泰公主墓」の記載がある。どちらのお墓の入口なのかは分からない。どちらも壁画で有名らしい。
当時はまだ高松塚の発見の記憶が新しく、高松塚のことをすごい大発見と日本では認識していたが、中国に来るとそういうものがごろごろあって、歴史の規模の違いを実感した。トンネルにある壁画は今はレプリカらしいが、当時からそうだったのかどうかは不明。高松塚の壁画のようなものを見ながらお墓の中に入っていけるわけで、高松塚のあの閉鎖性はなんなんだと思ってしまう。(2001年)
中国では、ちょうど米の収穫時期にあたっていた。田植えの光景も目にしたから、二期作なのだろう。脱穀したもみの乾燥はもっぱら道路で行われる。アスファルト舗装の道の両側にはもみが拡げられ、それをバスやトラックが踏んで通る。あまり散らばらないように時折拡げ直して、夕方にはほうきで集めて袋に詰める。観光地の駐車場も、参道も大いに利用されている。西安郊外の観光地では当たり前の風景だ。(1984年)
正直、この光景には驚いた。日本も昔は天日干しだったが、むしろをひいて、その上にきれいに並べていた。それでも米に小石が混じって往生していたのに、地面に直接広げるのだから参ってしまう。おまけに、一般の国道や駐車場、参道なども使っているのには驚くばかり。東大寺や金閣寺の参道にもみが干してある光景が想像できますか。(2001年)
東アジアの風景は、やはりよく似ている。おそらく何十年か前までは日本でもこのような光景を見ることができたにちがいない。段々畑をぬって通る農道。広大な農地。果てしなくどこまでも続く田んぼには中国の広さを感じる。農家の建物は視野のどこにもない。一体どこからこの広い田んぼを耕しに来るのか不思議である。(1984年)
西安の人たちは商売熱心である。人里離れた感のある乾陵までオートバイでアイスクリームを売りに来る。この青年の売るアイスキャンデーは少し大きめで値段は普通の倍、1角であった。余程よく稼ぐのか赤いバイクに誇らしくまたがっている。他にはバイクに乗ったアイスクリーム屋は見かけなかった。皆、自転車の後ろに木の箱を積んで、布団で保温して運んで来る。他に冷たいものがない中国ではこのピングォーのお世話になりすぎて、西安では下痢をしてしまった。
右の馬は写真屋の小道具。(1984年)
右の馬は写真屋の小道具。(1984年)
子どもの頃には、砂糖水に色をつけて凍らせただけというようなアイスキャンデーがよくあったが、当時の中国のキャンデーもそんな感じのもの。食べても不思議と当たりもしなかった。(2001年)
バスが着くと大勢の子供たちが、手に手に土産物を持って観光客を取り囲む。少しインド的な光景であるが、インドほどの切実さはないのか、いらないと言うと、すぐに諦める。だいたいはカラフルなパッチワークで、帽子、子供用のチョッキ、おもちゃの靴や人形である。非常に可愛いく、安いが、まだ旅も始まったばかり、また飼う機会もあるだろうと思って何も買わなかったが、これはこの地の特産で、少数民族の民芸品だったとかで、他の地方では全く見かけなかった。惜しいことをした。どうやら近在の農家の子供たちの小遣い稼ぎらしく、無届営業。警官の姿を見ると逃げ出すが、警官の方も本気では追いかけず、またすぐに営業を始める。(1984年)
もみが乾してあるのはここも例外ではない。両側に武官像の立ち並ぶ広い参道のあちこちにもみが拡げられている。とんぼのようなもので時々もみを拡げなおすのが彼の仕事。暇そうに馬の像の横に腰をおろす。(1984年)

文化財に対する考え方も日本とは大分違う。他所からバスで来るものには有料の場所だが、別に囲いがあるわけではないから近所の人には自由に出入りできる場所だ。子供たちにとっては、どんなに歴史的に貴重なものであろうと遊び道具の一つにすぎない。こんな風景は中国のどの史跡でも目につく。記念写真もこんな風に像の上に乗って撮るのはざらだ。日本のように何でもガラスごし、柵ごしに見せる方が不自然なのかもしれない。(1984年)
思い出してみれば、日本も昔は同じだったような気がする。子どもの頃に、飛鳥の石舞台で遊んだような記憶もあるし、中学生の頃は石舞台は出入り自由だったような気もする。思い違いかもしれないが、日本も昔は史跡に関しては同じような管理体制だったのか。(2001年)


























